2021年3月8日月曜日

2021.3.8 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書の言葉

くじによって選ばれた本日の聖書の言葉

旧約聖書 歴代誌下14章10節より
主よ、あなたは我々の神、主であって、いかなる人間もあなたには対抗できません。
新約聖書 コリントの信徒への手紙二12章9節より
キリストの力が私に宿るように、むしろ私は大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

皆さん、おはようございます。

本日、私たちに与えられた聖書の言葉が示すテーマは「弱くていいのだです。
 
本日の新約聖書の言葉では、救い主イエスの宣教者であるパウロが、自分自身を振り返って「私は大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と断言しています。自分が本当に弱い人間であると自覚し、さらにそのことを誇るとはどういうことなのでしょうか。
 
聖書を通して私たちが受け取りたいメッセージは、まず「私たちは弱い存在である」ということです。次に、そのような私たちの弱さに「キリストの力が宿る」ということです。神の力と助けがあるからこそ、人は弱いながらも、強さばかりがもてはやされるこの世で、生きることができるのだということを、パウロは自分自身の言葉として伝えようとしています。
 
パウロという人物は、社会的にも保証された身分に属する人であり、幼い頃から英才教育を受けてきたいわゆる秀才でした。社会は彼のことを弱い存在などとは思わなかったでしょう。恵まれた人、強い人という印象です。しかし、人々の見えないところでは、パウロは自分自身の弱さというものに、しばしば悩み苦しんだことは、彼の書いたものから知ることができます。
 
そのような葛藤の末に導き出された結論が「自分自身の弱さを包み隠さないくらいに誇る」ということでした。弱くてどこが悪い!と言わんばかりのパウロの思いが、この手紙の言葉を通して、読み手一人ひとりに伝わってきます。人々の勝手なイメージに振り回されることなく、彼の弱さはキリストの助けと力に集中します。弱いからこそ強い。この手紙のなかでパウロがこのように語ったのは、キリストが一緒にいてくださるから大丈夫!というパウロの誇りそのものからくる言葉だったのです。
 
私たちは「自分自身が弱い」ということを誇れるような社会に生きていない現実があります。世の中を見渡せば、弱さよりも強さが評価され、弱くあってはならないと檄(げき)が飛ばされることもしばしばです。ですから、いつしか自分自身の弱さを見つめる余裕すらなくなってしまうこともあるでしょうし、自分自身の弱さにふたをしながら、見た目の強さをアピールさせられることもあるでしょう。
 
しかし、本当の強さというものは、虚勢(きょせい)を張ることではありません。むしろ、最初の最初から、自分の弱さをさらけ出すことです。その弱さのためにイエスが救い主、キリストとなられたのですから。そして、キリストが私たちの抱く偽りの強さを打ち破られたとき、私たちははじめて生きることに安心を得ることができるのです。見た目にまどわされず、弱さを誇れるような生き方が、私たちの生きる土台でありますように。お祈りいたします。

2021年3月7日日曜日

2021.3.7 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書の言葉

くじによって選ばれた本日の聖書の言葉

旧約聖書 エレミヤ書1章17節より
さあ、立ち上がって、彼らに語れ/この私が命じることすべてを。
新約聖書 コリントの信徒への手紙二4章5節より
私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。
日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

皆さん、おはようございます。

本日、私たちに与えられた聖書の言葉が示すテーマは「なにを伝えるのかです。
 
本日は日曜日です。世界中のあらゆる場で、神の言葉である聖書が読まれ、語られ、私たちの祈りがささげられ、そして賛美の歌が響き渡ります。それらミサや礼拝、最近ではセレブレーション(祝福)とも呼ばれている場が、豊かにされることを心よりお祈りいたします。
 
ここ1年、集まること、集められることが当たり前だと思っていたこれらの礼拝の場が、いかにとうといものであるかを知らされました。新型コロナウイルスの影響を考慮して、集まらないという選択も大いに尊重されるようになりました。しかし、決して礼拝者が孤独にならないように、さまざまな工夫がなされています。それだけ、教会が長い歴史のなかで守り続けてきたことを、私たちもまた守り続けることの大切さを思わされます。
 
本日の聖書の言葉から私たちが聴くことのできるメッセージは「神の言葉が伝えられること」についてです。神の言葉である聖書が私たちにどのような道を指し示し、伝えようとしているのでしょうか。伝えることを委ねられ、託されたのは、神の言葉を受け止めた私たち人間です。神もそのようなつとめというものを、私たち一人ひとりに与えられました。
 
私たちは、受け取った聖書の言葉を自分の思いや心に落とし込むときに、100人が100人、同じように思ったり考えたりすることはありません。それぞれの状況に神によるメッセージが作用し、働きます。そして、働いたことに基づいて、私たちはそのことを言葉や行動、感情で表現します。そのことを伝えるのが「宣教」や「伝道」と言われるものであって、教会が2000年間、救い主イエスのご命令によって大切にし続けてきました。
 
そのようにして、大切なものをバトンタッチしながら神の言葉が伝え続けられたわけですが、これまでなされてきた宣教や伝道というもののすべてが、必ずしも神の言葉としてみんなから歓迎されたわけでもありませんし、私たち人間の誤用によって、神の思いや願いとは遠くかけ離れたことが、この世界中に起きてきたのも事実です。
 
ですから、私たちは、神の言葉を受け取った自分自身が、この言葉を胸にして、どのように語り、また生きていくのかということに、心を込めて向き合うことが本当に大切なのだと思います。神が言葉を通して、私たちに期待されておられることとはなんなのかを、神に祈りながら、神の助けを乞い求めるときに、必ず神は私たちの言動を、神の期待に近づけてくださいます。
 
そして、どんなに私たちの一人ひとりが異なっていたとしても、唯一共通することがあります。それは、私たちの救い主はイエスという御方であり、そのために神はいついかなる時も、私たちのいのちを守るために働いてくださった、ということです。このことが、本日も世界中で、私たちにとっての希望の言葉として語られるのです。
 
どうか、神の言葉が全世界に響き渡りますように。それを受け取る私たち一人ひとりのいのちが、潤いと活力に満ちたものへと整えられますように。そして、語る言葉、行動の一つひとつが、そのような神がおられることを伝えられるような希望の機会となりますように。皆さんの一日のためにお祈りいたします。

2021年3月6日土曜日

2021.3.6 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書の言葉

くじによって選ばれた本日の聖書の言葉

旧約聖書 イザヤ書60章3節
国々、人々はあなたの光に向かって歩み/王たちはあなたの曙の輝きに向かって歩む。
新約聖書 ルカによる福音書11章2節より
あなたの御国が来ますように。
日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

皆さん、おはようございます。

本日、私たちに与えられた聖書の言葉が示すテーマは「光に照らされるからこそです。
 
あなたの御国が来ますように。
この言葉は、救い主イエスが弟子たちに祈りなさいと教えられた祈りの内容の言葉です。いわゆる「主の祈り」の言葉として語られ、祈られる一文です。あなたの御国、つまり神が私たち一人ひとりを支配される世界が、私たちを現実に支配する世の中のさまざまな出来事をはるかに勝った出来事として、私たちのもとにやってきますようにという、私たちの希望が込められた祈りの言葉です。
 
私たちは、この祈りの言葉にリアリティ、つまり私たちの生活の現実として祈るように、イエスは私たちへ知らせたのです。本日の旧約聖書であるイザヤ書63章の言葉は、そのリアリティを「光」という言葉で表現しています。神は私たちに光を差し込まれた。その光に吸い寄せられるように、私たちは光に向かって歩み出します。光に照らされるからこそ、私たちの方向性が定まり、その方向に歩むことこそ、私たちのいのちというものを豊かにするというのです。
 
神が放つその光に向かって歩む人々とは誰でしょうか。ある人には光が照らされ、ある人には照らされないということは決してありません。あらゆる国々、そこに生きる人々、その人々を支配する王たちも、民とともに神の放つ光の道を歩むとあります。人間は支配のために区分しようとします。そして差をつけようとします。しかし、神はひとつの同じものに私たちのすべてを招かれます。そう考えますと、この神の招きに私たちの一人ひとりがどのような態度を持ってこの世で生きることが大切なのかを、考えさせられるのではないでしょうか。
 
神の招きがどこにあるのかをじっくりと考えることによって、その招きを喜ぶことのできる一日でありますように。心よりお祈りいたします。

2021年3月5日金曜日

2021.3.5 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書の言葉

くじによって選ばれた本日の聖書の言葉

旧約聖書 箴言18章10節
主の名は堅固なやぐら。/正しき者はそこに走り寄り、高く上げられる。
新約聖書 フィリピの信徒への手紙4章6節
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。
日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

皆さん、おはようございます。

本日、私たちに与えられた聖書の言葉が示すテーマ「安心の根拠です。
 
本日の旧約聖書の言葉である「箴言」は、竹針(たけばり)の言葉という意味の漢字を用いています。辞書を開きますと「いましめの言葉」とあり、なにかお仕置きをされるようなイメージを持たないわけでもありません。実際に教訓となるような言葉を聞くときに、耳の痛い話だと思うことも、私たちのなかではよくあるかもしれません。
 
しかし、ここでは別な意味としてとらえてみたいと思います。それは「はりは治療のために抜群の効果を発揮する道具である」という意味としてです。はり治療を受けたことのある方ならば、その効果は体感されておられるのではないかと思いますが、いわゆるツボといわれる部分をはりで刺激することによって、人間が本来持っている良いものをめぐらせて、悪いものを排出するのがはりの役割です。
 
ですから、箴言とは最終的に、私たちの命に良いものをめぐらせ、健康へと至らせる言葉であることを念頭に、本日のみ言葉をいただきたいと思います。本日のテーマが安心の根拠とするならば、箴言の言葉が私たちに伝える根拠とは「主という神の名前」がそうです。
 
主、という名前(ヤーウェ)には、①私は神であり、②私はあなたとともにいて、③私はあなたがたの神となる、という意味があります。ほんじょそこらで祭られている神ではなく、私たちの命を守り抜くために生きて働いてくださる方、それがヤーウェと呼ばれる神なのです。そして、この名によって私たちは、堅固なやぐらの上に高くあげられると、箴言の言葉は私たちに知らせます。
 
高くあげられるとは、別な聖書によれば「救いを得る(口語訳・文語訳)」「保護される(新改訳2017・ルター訳聖書)」とあります。つまり、あらゆる外敵から私たち自身が神のお名前によって守られるイメージです。私たちはその守られるところに、いつでも走り寄ることができます。そして、私たちの命は健全に守られていくのです。
 
聖書の言葉を私たちが受け取ったときに、私たちはその言葉を人を束縛させ、自由を失わせるための根拠であると思うことがあるかもしれません。実際、聖書の言葉は用い方によっては、簡単に私たちを束縛させるための材料に用いられることもあるでしょう。残念ながら、私たちはそのような誤用というものを、教会の長い歴史のなかで用いてきたことを、真摯な思いをもって認めなければなりません。
 
しかし、神のお名前が本当の意味で私たちを健全・健康へと導くための働いてくださることを言葉が示すのであれば、私たちはそのような神に駆け寄って、本日の新約聖書の言葉にもありますように、いついかなる場合にも「感謝をもって祈りと願いを献げて」自分の不安な思いやわずらいというものを神に打ち明けることで、むしろ、心や思いの痛み苦しみという束縛から自由にさせられる言葉として、大いに用いられていくのでしょう。
 
私たちは、そのような神の言葉に示された助けというものを、本日もいただくことができますように。皆さんの一日に、神の守りと祝福による平安がありますように。お祈りいたします。

2021年3月4日木曜日

2021.3.4 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書の言葉

くじによって選ばれた本日の聖書の言葉

旧約聖書 エレミヤ書29章11節
あなたがたのために立てた計画は、私がよく知っている――主の仰せ。それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない。
新約聖書 コロサイの信徒への手紙1章19~20節
神は、御心のままに/満ち溢れるものを/余すところなく御子の内に宿らせ/その十字架の血によって平和を造り/地にあるものも/天にあるものも/万物を御子によって/ご自分と和解させてくださったのです。
日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

皆さん、おはようございます。

本日、私たちに与えられた聖書の言葉が示すテーマ「平和の計画です。
 
私たちにとって平和とはなんだろうか。
そんなことを考えさせる聖書の言葉が、本日私たちのためにくじで選ばれました。
 
私たちが平和について考えるとき、その考えや理想というものが驚くほど異なることに驚かされることがあります。勧善懲悪(かんぜんちょうあく)という言葉があります。良いことが実現されるためには、悪が懲らしめられなければいけないという考え方です。ある意味、平和を実現するための手段と言えるでしょう。テレビドラマなどで正義の味方によって悪が懲らしめられて、その社会に平和が戻る姿を、私たちはスカッとした気持ちで見ることがあるのではないでしょうか。
 
一方で、粘り強くコミュニケーションを重ね、忍耐をもって話し合いを重ねることによって、平和が生み出されることを目指して歩み寄る態度を見ることもあります。解決をなかなか見ることのできない非生産的な方法かもしれませんが、血を流さない結果が生み出されたときに、心の底から平和を感じるときとなるかもしれません。そのためには、感情的にならずに話し合いを重ねていくための自己管理というものが、強く求められることもあるでしょうし、ときにはストレートな感情も必要なこともあるでしょう。それで平和が生み出されることもあるのですから、一概にこれが正しい方法であると言えるわけでもありません。
 
そのようななかで、本日の聖書の言葉を通して知ることのできる神の思いとは、旧約聖書エレミヤ書の言葉にある「それはあなたがたに将来と希望を与える平和の計画であって、災いの計画ではない」というものです。「災いの計画ではない」というひと言に、私たちは何を見ることができるのでしょうか。
 
旧約聖書を見ると、神は戦いというものを繰り返し展開しているように見えます。好戦的な神というイメージです。このようななかで、災いの計画を立てない神というのは、一見すると矛盾しているようにも思えるのです。平和のために無意味が犠牲がともなうようなことがあれば、それ自体が災いなのではないだろうかと思うのです。
 
もし、平和な計画というものが真に平和な計画であるとすれば、それは人間に犠牲を負わせず、神御自身が犠牲を背負う計画でしょう。人間が幸福へと向かうことができるように、神は和解の手を差し伸べ、和解のための救い主であるイエスを、十字架上で犠牲とさせられたことで、平和の計画を実現された。これが、本日の新約聖書であるコロサイの信徒への手紙を通して告げられているメッセージなのです。
 
十字架でひとりの、完璧な犠牲がささげられたのですから、私たちが自らの手で犠牲になることがあったとしても、これ以上、自分たちの手で何らかの犠牲をつくりあげる必要はどこにもないのです。しかし、私も含めて人間のすべては、大なり小なり無意味な犠牲をつくりあげることに、必死になってしまいます。
 
だからこそ、本日の聖書の言葉を胸に手当てして、本当の意味で神が与えてくださる平和を、心から愛する者となることができますように、祈り続けたいと思います。そのために、神が私たち一人ひとりを救わんとされておられることを、心に刻みつつ。
 
神の守りと祝福が、平和をつくりだしますように。お祈りいたします。

2021年3月3日水曜日

2021.3.3 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書の言葉

くじによって選ばれた本日の聖書の言葉

旧約聖書 創世記2章18節より
神である主は言われた。「人が独りでいるのは良くない。」
新約聖書 ヨハネによる福音書19章26~27節
イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「女よ、見なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

皆さん、おはようございます。

本日、私たちに与えられた聖書の言葉が示すテーマ「孤独にならないようにです。
 
本日の旧約聖書である創世記2章の言葉は、神が森羅万象(しんらばんしょう)をおつくりになられたときに、ご自身の最高傑作品であった人間に対して告げられたものです。「人が独りでいるのは良くない」。ここに神は、人間が孤独にならないように、お互いが補い合い、助け合って生きるために働かれる決意をされたことが分かります。聖書には「私たちは神の助けによって、決して孤独ではない」という、ひとつのテーマがあります。
 
しかし、そのような神の決意と働きがあるのならば、私たちが普段の生活で見ることのできる「孤独」というものを、どのように考えることができるのでしょうか。私たちはそれぞれが孤独の意味というものを考えることによって、この聖書の言葉をじっくりと心と思いにしみこませることができるかもしれません。
 
まず、最初に申し上げたいこととして、私たちが普段使いしている「孤独」とは、いったいなんだろうか、ということです。私たちが孤独という言葉を用いるとき、そこには「関係」を求める私たちの基本的な欲求があるということを忘れてはなりません。そして、たいていの場合、その関係を私たちは他者、つまり他の人間に求めようとします。ですから、他者との関係が希薄であったり、自分の思うような関係が生まれない場合、私たちは「孤独である」という言葉を使って、そこにいろいろな感情を持ち込んだりするのです。
 
しかし、本日の聖書の言葉を通して神が語られたのは、神御自身が人間に対して関係を求めようという思いを持っているということです。人と人との関係を考える前に、神と人との関係に、私たちの関心を注目させようと神は人に「孤独は良くない」と語られます。そして、神は人間をさらに助けることにしました。
 
私たちが孤独について語るときに、しばしば言われるのは「ロンリネス(loneliness)」と「ソリチュード(solitude)」の違いについてです。どちらも孤独を意味する言葉ですが、ロンリネスは目に見える他者との関係性が失われたときに感じる寂しさやつらさのために起きる孤独であり、ソリチュードは自分自身を見つめ、向き合うことでより充実した命の日々を楽しむことのできるための、大切な孤独の経験や時間のことを指します。
 
神が「人が独りでいるのは良くない」と人間に語られたのは、第一に、神が私たちの傍らにいて、ご自分の言葉と力、つまり聖書の言葉と聖霊の助けによって助けようとする関係性を持ち続けてくださる方であることを私たちに思い起こさせ、第二には、私たちが現実世界のなかで、神と人との関係性に基づいたともに生きる仲間を与えてくださったということを指し示しています。
 
ですから、私たちは日々の生活のなかで人と人がともに生きるときに、そこには神の助けがあふれんばかりに与えられたところにこそ、人間関係というものがより豊かにされていくことを心に想いながら、本日も生活してまいりたいと思います。人間関係に疲れるならば、神が私たちに関わってくださり、助けてくださるということで、ロンリネス的な孤独から解放されますように。そのような神の祝福が今日もありますことを、心よりお祈りいたします。

2021年3月2日火曜日

2021.3.2 #日々の聖句 #ローズンゲン 聖書の言葉

くじによって選ばれた本日の聖書の言葉

旧約聖書 詩編119編66節
優れた分別と知識を私に教えてください。/私はあなたの戒めを信じています。
新約聖書 ヤコブの手紙3章13節
あなたがたの中で、知恵があり分別があるのは誰ですか。その人は、知恵に適う柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。
日本聖書協会『聖書 聖書協会共同訳』より引用・利用

皆さん、おはようございます。

本日、私たちに与えられた聖書の言葉が示すテーマ「知恵と分別です。
 
本日の新約聖書であるヤコブの手紙3章には「あなた方の中で、知恵があり分別(ふんべつ)があるのは誰ですか」という問いかけの言葉があります。この問いかけの言葉によって「知恵」という言葉と「分別」という言葉との間には、深いかかわりがあることを示しています。本日はそのことを聖書の言葉から聴いてまいりたいと思います。
 
やはり、本日の旧約聖書である詩編119編の言葉のなかでも、詩人は神に願い出ます。「優れた分別と知識を私に教えてください」と。ここでも「知識(知恵)」と「分別」をセットにして求めています。分別とはなんでしょうか。それは、物事や出来事に対して、自分自身でじっくりと考えて、判断して生きようとする態度や能力のことを指します。
 
ですから、聖書のいう「知恵がある」というのは、単に知識が豊富であるというところにとどまらないで、その知識が私たちそれぞれに与えられた生活に、十分に生かされているかどうか、つまり、得た知識によって分別のある生活が営めているかどうかというところにこそ、十分な意味があるということなのです。
 
そこで、詩編の続くところでは、詩人が求めている知恵として「あなたの戒め」を信じると歌っています。戒め。それは神が与えた律法であり、広げて言えば神の言葉である聖書のことであるとも言えるでしょう。
 
ユダヤ教では、男の子が13歳になると(最近は女の子もおこなわれていると聞きます)、「バル・ミツバー」という儀式を行います。「戒めの子」という意味であるバル・ミツバー。ユダヤ人社会の成人式と言ってもよいこの儀式の前に、十分な時間をかけて律法から神の知恵を学ぶ機会をもちます。この知恵は、ユダヤ人社会のなかで生きるに欠かせない基本的な知識となり、分別をもって生きることの大切さを、ひとりの成人として身に着けるというのです。
 
日本語で戒めというと、厳しい戒律のようなイメージがあるかもしれませんが、その中心にあるのは、神の私たちに対する愛を受けて、その愛をもって神を愛し、隣人を愛するといった、愛を基本にする生き方こそ、戒めの中心にあるものです。そのような神の愛に基づいた知恵は、周囲に「柔和」をもたらし「良い生き方」をもたらすという、本日の新約聖書・ヤコブの手紙3章に書かれた勧めへと、私たちの生活を導きます。
 
神の愛にもとづいた知恵と分別を、私たちは今日も聖書の言葉と聖霊の助けを通して、神からいただけることを思いつつ、その生活が神の放つ輝きに満たされたものでありますように。皆さんの一日に、神の守りと平安を、心よりお祈りいたします。